岸辺のAlbum

teenstの日記

震災の話です

この半年くらい,ちょっとづつ考えていることを書く.ずっとモヤモヤしていて何だろうなぁとか考えてたけど,やる気になったのでとりあえずアウトプットするだけアウトプットする.びっくりするぐらい抽象的なのは,これが1稿目のようなものだからだろうと思う.気が向けば赤入れしたい.一体僕は誰と戦っているのか.


自己の経験をベースに話を組み立てるのは結構なのだが,
だからといって他者の経験についてまで,理解ないしは追体験できるとは全く思えないと思っている.


福島に行くと,「実家が無くなった」という話を同世代の方が自虐気味に話すし,
福島在住のフォロワーも,震災の話をブラックユーモアとしてツイートしてたりする.*1
じゃぁ僕達が,そのことを同様に笑い話にしていいかというとそんな簡単にしていいものでもないと思うし,
彼らは彼らで,「もっと苦しい人たちがいるんだぞ」という批判も受けているのかも知れない.

僕も「震災後,福島に行った」という経験があるので,他の関西在住者とは違うところに立っている気もするけど,
では,それが「免罪符」の機能を果たすかというとそれも違う気がする.
被災者のメンタリティを自分に複製*2することはできない気がするし,
そういうことから議論を組み立てるのはよくない始まり方だなとか思ってる.
たぶん,世の中には免罪符になるような圧倒的な言葉なんてなくて,
多くの言葉はそれでも免罪符のような振る舞いができるから,よく考えないと誤魔化されるのではないかとか思ってる.*3


あとは,誰が震災をネタにしていいかっていう話を考えていて,
誰かを傷つける/不謹慎であるという観点からいけば,誰もネタにしてはいけないものだし,誰も震災をネタに同情を誘ってはいけない質のものなのだろうと思っている.
だからこそ,それをぶち破る考え方みたいなのが,これからも欲しいと思う.
これは多分震災に限らず,何か(感情や結果)が伴うすべての出来事に言える感じがしている.

確かに僕は,「多くの人が多くハッピーになればいい」みたいなことを考えるけど,
だからといって,「多くの人が,悲しむことをみんなで回避しよう!」みたいなのは同様のことをやっている風に見えて全然違うことだと思ってる.

「これは言っちゃ駄目だろう」みたいなことをやっぱり思いつくし,
それで自分をセーブすることのほうが多いのだけれど,
そういうのもきちんと考えてアウトプットしたいなぁと思ってる.


あと,被災者とそうじゃない人みたいな感じで,分類して考えることはちょっと良くないことかなぁみたいなことをなんとなく考えている.
分類したせいで弊害が出るみたいなことが,実際に頭の中で起きているような気がする.

*1:「他県では引かれる!」とか言ってる

*2:参照渡しが近いか

*3:免罪符という言葉の成り立ちを考えれば成る程という感じでもある