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岸辺のAlbum

teenstの日記

国家

横浜美術館で開かれている蔡國強展:帰去来に行った.
蔡國強展:帰去来 | 横浜美術館


みつばさんが良いと言っていたので気になっていた.


性的なエリアがあってびっくりする.
作品自体というより,作家の作品の提示の仕方に興味を持つ.



普段は映像はほとんど見ないのだけれど,
今回の作成に関するドキュメンタリ映像や,作家を振り返る映像はかなり興味深い.
拠点を日本から移す中国の方の政府(というか党)に関する態度というのは,のほほんと日本に暮らしていると全く想像もできないところで,作家もまた,折り合いをつけながらも五輪の仕事をするなど,
対立はせずに活動する,しかし考えはあるというところ.作家の生まれた時代と国についての同時代性について話す.


常設展であるところのコレクション展は,ひと通りサッと見る.
ダリの大きい作品,イサム・ノグチの立体など図らずとも戦争の展示が多い.
美術館の訴えかなと思うが,
近代は戦争の歴史だったわけだし,避けては通れないよなという感じ.


MARK IS みなとみらい三菱地所感がある.



竹橋の東京国立近代美術館に移動.ヤゲオ財団につづいて2回目.
本当に良い展示を持っているし,ここのキュレーションのファンなのだと思う.


国立美術館の所蔵品を美術館としての切り口で見る.
今年見た展示で一番グッと来るものだったと思う.
施設の立場,美術館や図書館,また美術や博物学と呼ばれていた学問について,
時代が流れることで要求も役割も変わるという話を考える.


自分が良かったと思った展覧会は,
一つの作家についての企画展ではなく,メタ的なものだったり,
ある収集家のコレクション展だったりするのだろうなと,購入した図録をみて思う.
京都のマイ・フェイバリットだったり,去年の竹橋のヤゲオだったり.

美術館ではカメラの音が鳴り響く.ここは一部の作品を除いて撮影OK.

ライブハウスや夏フェスでカメラを振り回す人たちがいて,
パブリシティ権の観点としてまずいのではという話と,
単純に携帯電話の画面液晶が邪魔なのでかんべんしてほしい
という話を数年前に書いた記憶があるが,
ついに今ではそれすらも当たり前の風景になってしまった.

美術館ですらAppleの端末のカメラ音がどんどん聞こえてくるように.
東京国立近代美術館の館長が書いた「本物にふれる」ということと記録をすることの違いについて考えが行く.


写真はデータであり,
その中に私がいることだけが価値であると考えるので,
対象の複製画像にはさほど意味がない.
あるとするならば記録のための撮影であり,リファレンスとしてのものだけだろうか
確かに今回のキャプションは秀逸で,これは図録を買うべきかなという思いに至ったのだった.


インスタグラムは誰が誰とどこにいるかということを投稿でき,
その情報について他者が重みを付けられるプラットフォームとして今のところ秀逸であり,
逆に言えば,今のところそのプラットフォームを面白がる以外の面白さは見つけられてない.

つまり写真作品としては楽しむには弱くて,せめてコマーシャル・フォトであり,SNSでしかない.
美術館に行くと,「写真がわからない」という人がいるけれど,
それを言うなら僕は日本画や彫刻の知識は持ち合わせていないため「わからない」以前だと思う.
写真だけがわかるなんて考えるのは,おこがましい.
自身が手軽に作家と同じことができることや,巷に商業写真があるから,「わかって当然である」という「勘違い」が起きているというふうに考えている.
『なぜ植物写真か』,『明るい部屋』だけでも読むと納得できることに幾つか行き着く気がする.



ITやWebが戦争や国防と無縁ではないことは,
それらの技術がどのように生まれ発展してきたかを今更語るまでもなく,広く知られることである.
作家やミュージシャンなどのアーティストと呼ばれる人たちが,
左寄りになるのは表現の自由と繋がっているからという話もあったと思う.

世論の問題を「左翼か右翼」ではなく「理想主義か現実主義」かの違いであると主張するブログエントリーも見たが,
私の実感としてはそこまで割り切れるものでもないでもない気がする.

私の貢献するところは,ここではないので「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」か*1


いやでも人間の狂気について考える二日間だった.

あのころはフリードリヒがいた (岩波少年文庫 (520))

あのころはフリードリヒがいた (岩波少年文庫 (520))

*1:この言葉もきっと意味があるので誤解してる可能性が十分がある.言葉通りにとらえてはい・け・な・い